2025/7/7で25周年を迎えたFF9。およそ20年ぶりとなるが、記念にプレイしてみたらあっという間にクリアしてしまった。
直近では「FF7 Rebirth」「メタファーリファンタジオ」「Expedition 33」と立て続けに評判の良い最新RPGをクリアしたが、これら以上と思える程、FF9は最高だった。

2000年当時のゲーム事情
PS1は1994年12月3日、PS2は2000年3月4日にリリースされたため、2000年7月7日発売のFF9はPS2発売後にPS1で出されたという、PS1最後期のソフト。
PS1が覇権の90年代のゲームといえば、3Dグラフィックの黎明期で、各社技術力を競い合うような空気感があった。
この時代の先駆者であったスクウェアは、シリーズ初の8頭身モデルを採用したFF8を1999年、PS2初のFFとなるFF10を2001年に発売。
FF7〜10が約1年おき。当時の進化スピードは凄まじい...








市場も未成熟で開発費も比較的安く済んだ(1本あたり約1億円前後)ことから、小さな会社でもゲーム作りに挑戦できる土壌があり、挑戦的で個性的なタイトルも多かった。言ってしまえば玉石混合状態。
そんな最中、約40億円が投じられたFF9は非常に高品質で、PS1におけるRPGの集大成と言うべきタイトルであった。
FF9から感じたこと
久々にプレイして改めて感じたのは、クオリティラインの高さ。目につくあらゆる要素に神経が行き届いており、RPGにおいて大事な要素とは何か?ということについて考えさせられた。
そして考えを巡らせている内に、RPGのクオリティは以下の要素で測れるのではないか?という視点が得られたので、これらについて考えをまとめてみる。
キャラクターの解像度
「キャラクターがしっかりしていれば物語は後からついてくる」と言われるほど、物語の面白さはキャラクター次第と言われる。
言うなれば、キャラクターの良し悪し≒ストーリーの良し悪し。
ではなぜ「ストーリーのおもしろさ」と表現しなかったかというと、ストーリーがおもしろいだけでは、インタラクティブに関わる要素のクオリティが担保できないから。
FF9はキャラクターの解像度が高く、キャラクター描写の徹底によってゲーム体験としてのナラティブが優れていたため、「キャラクターの解像度」こそが大事なのではないか?という考えに至った。(詳しくは後述)
対照的なキャラクターたち
FF9はそれぞれのキャラクター達が対照的であることが特徴であるため、後の説明のためにもジタンと他キャラクターたちとの対照的な点を書き出してみた。

FF9本編ではこの対称性を意図的に演出しており、1人のキャラクターの個性が見えることで、対照的な他のキャラクターの個性も同時に浮き彫りにしていくような形式で物語が進行していく。
その上で、本作は「生と死」という大テーマを、主要キャラクター毎の視点で緻密に描写されることで、「生き方」と「死生観」についての苦悩と、それが共に旅をすることで成長し解消されていく様子が味わえる構成だ。
これによってキャラクターに共感を愛着が湧くと共に、続きが気になる状態が維持され、FF9をプレイする推進力になっているし、
- なぜ彼らは行動を共にしているのか?
- なぜ次の目的地へ行く必要があるのか?
- このキャラクターは考えているのか?
といった一見当たり前だが、ゲーム上おざなりになりがちな部分のフォローにも繋がっている。
FF9は”キャラクターが生きてる感“が強く、キャラクター達の意思と成り行きで物語が展開されていくようなライブ感があるのはこういった理由なのだろう。
だからこそ、キーフリー時には「次はこれをしよう(したい)」と思える状態でコントローラーを握れ、イベントシーン中は固唾を飲んで集中して見れるようなロールプレイが味わえる。
これぞまさにRPG
この現象はキャラクターの解像度の高さによって成し得るナラティブの賜物であり、RPGにおいて最も期待されるおもしろさとはこういったことなのではないだろうかと、FF9をプレイして感じさせられた。RPGのクオリティラインを測る上で「キャラクターの解像度」が大事だと思ったのはこれが理由で、名作と言われるRPGは確実にこの点が優れているはずだ。
余談だが、当時は「やけにアピールしてくるな」くらいに思っていたATEシステムも、緻密な描写の積み重ねには、無くてはならない要素だったのだと、今では理解できる。

フレーバーテキストのクオリティ
フレーバーテキストとは、 ゲームの雰囲気作りや世界観の表現に用いられる文章で、ゲームの進行やルールには直接関係しないものを指す。言うなれば、世界観のクオリティのボトムライン。
機能的には末端中の末端だが、フレーバーテキストのクオリティが世界観の解像度を左右するため、結局はこの部分にまで神経が行き届いてる作品が、名作になり得る。
RPGにおけるフレーバーテキストは多岐に渡るのだが、今回はFF9のモブNPCにおけるテキストをピックアップしたい。
フレーバーテキストのモブNPC
モブNPCの中でも、世界情勢/国民性(民族性)/生活感/時間経過感 等の世界観を描写する役割を担う、フレーバーテキストとしてのモブNPCをピックアップしたい。
【リンドブルムの鍛冶屋】
世界情勢、時間経過感が感じられるNPCの代表格。
頑固おやじと弟子が常に喧嘩している、絵に描いたような活気のある鍛冶屋。
しかし、アレクサンドリアの襲撃によっておやじが被害に遭い、未熟な弟子一人では店が回らず、実際に合成の機能が利用不可になる期間が存在する。![LukeNegi on X: "リンドブルムの街の探索を探索をしていると、[合成屋]を発見!! …何やら親子喧嘩の最中みたい😅 倅が気を取り直して、腕を振るってくれた✨🔨 そ、双頭の剣が作れるだと…!! 夢が広がる🌟🤩🌟 #FF9 #ジタン https://t.co/u1NeVPmTqX" / X](https://pbs.twimg.com/media/G1yK93EbQAAXaWr.jpg:large)
しばらくするとウェイン一人でも店が回るようになり、合成屋も利用可能になるのだが、更に時間が経過すると、亡くなったかと思っていたおやじがシレっと無事に帰ってきている。メインシナリオの進行に応じて変化する二人の関係性と、弟子の成長が微笑ましいテキストであった。
リンドブルムは、襲撃前後の変化が印象的だったね
【南ゲートの守衛】

このシーン以前のリンドブルムにおいて、現地民ですら一度に食べない量を口に含んでピクルス屋を引かせながらも、初めて食べるピクルスの味を気に入るという一幕がある。(全編を通してスタイナーはバカ舌設定)

そんな前振りがある中で、ピクルスの臭いで守衛をドン引かせるスタイナー。

”ピクルス好きに悪いやつはいない”理論で強引に突破するという、これもまた微笑ましいNPC会話のシーンであった。
【トレノのマセた子供】
国民性、生活感が感じられるNPC。
貧富の差が如実に描かれている街トレノにて、「野望」というタイトルのATE内で登場する子供たち。




この街で暮らす子供はこんな様に育ってしまうのか…
これらはパッと思い浮かんだものだが、モブNPCの内容まで記憶に残っている時点で、それだけ世界観にのめり込めたということ。
モブNPCレベルでこのクオリティなのであれば、当然主要キャラクター達の台詞は、より一層素晴らしいわけで。
ユーザビリティの高さ
どれだけ作り込まれたストーリー、世界観、ゲームシステムがあっても、ユーザビリティが悪ければプレイの継続は難しい。
言うなれば、ユーザビリティの高さとは「プレイヤーへの心配り度」であり、「システム面のクオリティのボトムライン」だ。
特に近年では、何か少しでも不便を感じさせた日には「やめる理由」としてTwitter(X)にポストすると同時に、積みゲー化が確定する。石版集めに顔を歪ませながらも、クリアまでプレイする古いゲーム好きの我々とは訳が違うのだ。
やるならまだ良い方。今は”観る”という選択肢すらある時代。
前置きが長くなったが、ここで言いたいのは、これだけ素晴らしいFF9でも、ユーザビリティによって「やめる理由」が存在していたということだ。
FF9をやめる理由
- ランダムエンカウントのロード時間
- 進行方法がわからなくなる
- ダンジョンギミック
【ランダムエンカウントのロード時間】
おそらく、これが理由でやめた人が最も多いはず。PS1のメインメモリは2MBしかないため、戦闘が起こるたびにディスク読み込みが発する事は仕方のない事ではあるのだが、数百〜数千回生じるとなると、プレイヤーとしては許容し難い。

また、ローディング直後には接敵時のカメラワーク演出が入るので、こちらもまたテンポ感を損なう要因になっている。




さらに言えば、戦闘終了時の勝利演出&ファンファーレですら、近年のゲームの快適さに慣れた今となってはテンポ感が悪いと感じてしまう。


ハード性能の違いだけじゃ無いんだね
【進行方法がわからなくなる】
これは2種類あって、
- 今やるべきことがわからなくなる
- やるべきことは分かるが、どこにアクションすれば良いかがわからない
という問題が、当時のゲームでは頻発する。
今のゲームでも、気配りが足りないと起こる問題

>マダイン・サリの進行
①広場でエーコと会話する
②一度広場を出て再び広場に戻り強制ATEを見る
③エーコの家に入ろうとする
④入口付近にいるダガー合流する
⑤モリスンに話しかけ、召喚壁を見る
⑥召喚壁から出てエーコの家に行く
⑦食器を片付けてエーコと話す
⑧エーコの家で休む
⑨コンデヤ・パタ山道を通ってイーファの樹へ
この②〜⑥は特に誘導もなく、自分でフィールドを周ってフラグを探ることになるため、進行条件が分からず、無駄に歩き回りがちなポイント。
FF9は当時のゲームとしては、比較的誘導が丁寧であまり迷うことが少ない作品であったが、それでもこういった誘導不足なポイントはあった。


近年のRPGでは、このように次にやるべきこととと場所を明示するのが主流になっている。これであれば、たとえ中途半端な状態でゲームを中断し、半年後に起動したとしても続行できるだろう。

FF9の23年後に発売されたFF16では、もはやメートル単位で進行ポイントを明示するようになった。
UIはメタ表現なので、一昔前であれば「こんなの情緒が無いだろ!」と憤怒するゲーマーが出るような要素なのだが、“タイパ”が気になる現代では「快適さ」と「テンポ感」の阻害は、世界観の阻害より悪とされるのだ。
一抹の本末転倒感。でも、これに一度慣れてしまうと...
【ダンジョンギミック】
今と昔のRPGを比較したとき、ダンジョンのボリュームとギミック難易度にも変化がある。昔(感覚的に、90年代〜2000年前期あたり)のRPGはダンジョンにボリュームがあり、パズル的なギミックが豊富に散りばめられていた。


一方、近年のRPGでは(あってもなくても変わらないような)簡単なギミックが少しある程度で、ほとんど通過することがメインの構成となっている。
不必要なボリュームの多さは反感を買うという、プレイヤー心理の変化があることに加え、そもそもダンジョンとかギミックはダルいだけであまり面白くないという事が、共通認識化されていったのだろう。一部を除いては...

...
まとめ
25年前の作品を改めてプレイするにあたって、”想い出補正”で美化されているのではないか?と恐る恐るプレイしたのだが、名作と謳われるFF9からはRPGとしての普遍的なおもしろさと、今でも十二分に通用する魅力が詰まっていることが再確認でき、非常に良い体験であった。
また25年前と現代で、ゲーム体験において最も変化のある要素は、ユーザビリティであって、ゲーム市場が成熟するほどに、ユーザビリティとゲームの評価は密接になっていることに、FF9を通して改めて気がつかされた。
時が経っても良いものは良い。
そう思わせてくれるような作品を、自分も残してみたいものですな。